「グレイト・マウス」より。――前編


 次元は時折、ある男のことを思い出す。
 次元は彼の相棒を殺し、彼に命を助けられ、そして彼を―――撃った。
 彼の名はネズミと言った。
 あの日、下水道で、殺したはずのネズミから復讐宣言を受け取った時は純粋に嬉しかった。
 借りを返せる、なんて義務的な思いもあったがそれよりもただ、ネズミが生きていたことが嬉しかった。
 それから、彼の音沙汰はない。
 

 早く起きすぎた次元は、上体だけ起こしてぼんやりとしていた。
 白い朝の光の中で、彼の体躯がシーツに影を落す。しわの寄ったシーツの上で、影は複雑な形に変化していた。
 なんとなく、ネズミのことを考える。
 こうしてたまに思い出せば、決まって胸がきりきりと痛んだ。
 爆発した車の映像が網膜にちらついた。
 自分が裏切ったこと。
 ―――裏切った?手を組んだわけでもない、ましてやルパンを殺そうとした男だぞ?
 それも、次元自身に化けて。
 だから俺は撃った。ゆえに自分の行為は正当だ。
 ・・・いや、違うなと、彼は首を振った。
 やはり彼は裏切ったのだ。ネズミは彼を仇だと思っていただろうが、同時に信用もしていた。それを、あんな風に狙撃するのは裏切り以外の何物でもない。
 次元は20数年前、ネズミの相棒をネズミに変装して近づき、油断させて殺した。その次元を、ネズミは殺さずに生存を認めた。
 そして、生き長らえた次元はネズミが同じようにルパンを殺そうとした時、許せなかった。ネズミは、次元に撃たれる事など思いもしなかったに違いない。
「すまねぇ・・」何度この言葉を呟いた事か。

 とはいえ、と次元は隣のルパンの寝顔を見た。
 ルパンは、すーすーと寝息を立て、実にお気楽な顔で眠っていた。
 
 結局のところ俺は裏切るより方法が無かったのだと思う。
 ルパンを殺るのは許せねェ。下水道で繰り返し言った言葉は、今も変わらない。
 隣の次元の思いを知ってか知らいでか、平和そのもののルパンが寝返りを打った。
 やがて、次元は二度寝の気持ち良さに目を閉じた。

 
 ルパンがなにやら騒いでいる。
「次元ちゃーん、買い物行かない?」
「は?」
「か・い・も・の。食料の買い出し、金を有意義に使う行動」
 なんでそれくらいで俺を誘うんだと煩わしそうに答えると、ルパンは頭を掻きながらいった。
「だからよォ・・1ヶ月分の食料が底をついちまって・・・その・・一人じゃ持つの大変でさぁ・・」
「俺は荷物もちか!」
「次元だって食べるくせに。二人分買って来るんだ、お前が行かなくていい理由なんざねェだろ?」
「・・・そりゃあそうだが」
 確かにルパンの言う通り、手伝った方が良いのかもしれない。
 だが、今の時刻は夕方だ。
 主婦がスーパーや商店街に丁度出かける時刻。そこを男二人で買い物袋下げてうろつくのかと考えると気が進まない。
 しかしルパンは次元が来るものと独り合点して、ミニバンを車庫から出している。
「しょうがねェ、行ってやるか」
 と、彼は重い腰を上げたのだった。
 山の中のアジトから、車で小1時間ばかり降りたところに市街地がある。


 スーパーでは思った通り、少々気まずい思いをして割り振られたものをカートに積みこんだ。
 缶詰、冷凍物、飲料水、酒。
 精算が済み、カートからあふれんばかりの食品類を四苦八苦してミニバンに乗せた頃には、買い物とはいえ結構疲れていた。
 この分じゃ、ルパンもさぞかし大変だろうと商店街の方を見に行く。
 ルパンは精肉店の店先にいた。
 やはり、大きな袋を抱えている。手伝ってやろうと歩みかけて次元の足が止まった。
 右前方の、白いカローラ。そこから、細長く黒っぽいものが突き出されようとしていた。
「ルパン!危ねェッ!」
 叫ぶ次元。ルパンが振り向いて、カローラを見つける。
 その間に次元は走り寄って、ルパンを突き飛ばそうとした。
 手を伸ばし、その手がルパンの真っ赤なジャケットに触れる寸前。
 何か強い力が急に起こって、次元は路上に突き飛ばされた。
 同時に、ポップコーンがはぜるような音が聞こえて、サイレンサーつきの銃に撃たれたんだと悟った時には体を貫く痛みに視界がゆがんでいた。
 そのゆがみの中で、彼の目は一点を捕らえた。
 視界が、そこだけクリアになって鮮やかな色彩が踊った。
 先ほどのカローラ。車内には運転席に一人だけ。
 そいつはまるで狩猟用のライフルでも撃つように、軽いと言われるベレッタを両手で支え、腋を閉めて窓の枠に両肘を乗せている。
 その人物の顔が一瞬見えた。
 あっと思った時には男の顔は無く、カローラは急発進していた。
 ナンバーを読み取ってやろうとすると視界のゆがみが戻ってきた。
 車の走り去る道路が大きくうねる。
 血相を変えて走ってくるルパンもゆがんだ。誰かの悲鳴が鼓膜に響く。
 ルパンに抱きかかえられているのが感覚に伝わる。
 息が苦しかった。曇り空が波打ち、呼吸するたびに心臓を突き上げるような痛みに意識が飛びかけた。
 どろっとした液体が腕を伝わる。この目の前に飛ぶ赤はなんだろう。相棒のジャケットか、それとも俺の血か。
 悲鳴の合間にルパンの声が聞こえる。
 返事を返そうとして息を吸い込んだ瞬間、激痛が脇腹から広がって彼の意識は急速に遠くなっていった。


 次に目覚めたのはアジトの寝室だった。
 時計を見ると、気絶していたのは2時間ほどらしい。
「・・っつ」わずかにでも動くと痛みが走った。
 だから一切動かないでいようと、彼は目だけ開けたまま仰向けになっていた。
 カローラの中に居た人物の顔がぼんやりと像を結ぶ。
 初心者のような撃ち方、こっちを向いた黒い眼。
 必死で目を凝らすと、突然あの男の顔がはっきりと見えた。 
 まさか、と思っていると誰か入ってきた。ルパンだ。
「あ、起きたか。気分はどうだ」
「最悪だよ」
 やたらに咽喉が乾いている。それを察したかのように、
「ほれ、水」と冷たいコップが頬に押し当てられた。
「わッ・・何しやがんだ!」
 つい大声を出してしまった。また痛みが襲ってくる。
 いてて・・と顔をしかめる次元をルパンは笑って、上体を起こすのを手伝ってくれた。
 水を一杯飲んで、やっと人心地がつく。
「大した怪我じゃないみたいだぜ。あんときゃ本気で心配したンだからよォ・・」
「心配したのか?」
「オレがンな薄情者に見える?」
「ああ、見える見える。怪我人をほっといて、女の家にでも行きそうな面だ」
「ひっでーなァ」
 そう言ったルパンの顔が可笑しくて、次元は笑ってしまった。
 腹筋を動かしたものだから、当然の如く痛みが再来した。
「はは・・っつッ」
 うずくまった次元を呆れるように見てルパンが言った。
「おいおい、馬鹿じゃねーの?・・・まあ、その様子じゃ大丈夫そうだな」
 それから、真顔になった。
「次元、撃った野郎は俺を狙ったんじゃない。お前を狙ったんだ」
「ああ、分かってる」
「心当たりでもあるのか?」
「ある」
 ――――そう、狙撃してきたのはあのネズミだ・・
「ふーん・・オレに言わねェってことは関係無い奴ってことか」
「そうだ。すまねェが、これは俺の問題だ」
 ネズミに向かって呟きつづけた言葉を、今度はルパンに言っている。
 この件ばかりは、ルパンに知らせずに終わりにしたかった。
「それじゃ、オレは必要なもの買いこみに行くから、しばらく動くなよ?」
「分かってる」
「じゃあな」
 戸口でちょっと振り返り、ルパンは出ていった。


 目を閉じても、ネズミの顔ばかり浮かんで寝られない。
 30分ばかり経っただろうか。ドアを誰かがこつこつと叩いた。
 即座に緊張し、枕もとのマグナムに手を伸ばす。
「誰だ」
「オレだよ、ネズミさ。話がしたい。出てこれるか?」
 ネズミ。その名を久しく聞いた。
「出られるぜ」
「じゃ、外のカローラで待ってる」
 ベッドからそろりそろいと降りた。
 一歩踏み出すごとに息が詰まるような痛みはあったが、興奮のためだろうか、さっきよりは痛みも無い。
 平屋のアジトを慎重に出て、ドアを開けると本当に市街地で見たカローラが止まっていた。
 すでに夜だ。
 ネズミは運転席で待っている。
 乗りこむと、さすがに額に汗が浮かんだ。
 車を発進させながらネズミが言った。アクセルを踏む足がぎこちない。
「どうやら、弾は外れたか」
「当たったぜ」
「いや、心臓は逸れた」
「あんたと同じだ。そう簡単には死なねェさ」
「だな」
 それきり、車中の会話は無かった。
 無言のまま、三時間が経ち、二人は人気の無い工場の廃墟についた。
 カローラが建物郡の一つである倉庫に横付けされる。
「鍵は開いてる。先に行っててくれ」
 とネズミは言い、やはり運転席から降りなかった。

 倉庫の中は湿っぽい。貯蔵庫らしく、小さな窓が三つ。どれもカーテンで遮光されている。
 ドアを薄く開けたまま、次元は数個残っていたダンボール箱の一つに腰掛けてネズミを待った。
 すぐにネズミは来た。

「ちょいと、目を瞑っててくれねェか。姿を見られたくないんでな」
 言われたままに次元は目を閉じた。疑いは起きなかった。それに、彼にはネズミがそう言うだけの理由が分かっていたのである。
 瞼の裏の闇の中で、扉がしまる音がした。そして、重たい車輪が床を転がって近づくのが聞こえる。その音が次元のすぐ右まで来た。
「もういいぜ」ネズミが言った。
 目を開けてから、次元は戸惑った。見えた世界は、目を閉じていたのと全く同じだったからだ。
 まるで、自分の四方を黒く分厚い緞帳ですっぽり覆われているような闇。
 その闇の中で、隣にいるらしいネズミの静かな吐息だけが聞こえた。
 数回目をしばたたかせて、混乱している脳を静めると、ネズミの存在を姿として感じ取ろうとした。
 しかし、どれだけ目を凝らしても、ネズミはおろか、己の体さえ見えない。
「よォ」と言えば、冷たい真っ暗な空間に音が吸い込まれていく。まるで、この倉庫が無限に広がって、自分の存在さえあやふやになるような感覚だ。
 黒いペンキを塗り込められたみたいで、それはむしろ息苦しかった。

「よォ、傷は痛むか?」ネズミが返した。
「・・・ああ、痛むよ」
「そりゃよかった」
 暗闇の中で、ネズミが嘲笑う気配がした。くつくつと、ネズミの声だけがやみの中で反響する。
「お前は大体分かってるんだろ。5年前、オレはなんとか命は取り止めたものの、両足を切断した。おまけに手も、銃みてェに重いものは持てない。・・・イカレちまった」
 ネズミの話を聞きながら、そっと、次元は傷口を触った。撃たれた時の、ネズミの仰々しい構え方が脳裏に浮かぶ。触れると電撃のような痛みが貫いたが、出血は抑え目になっていた。

「恨んでるか」
 再び、くつくつと笑う声がした。
「そりゃあ、恨んでるぜ。相棒を殺された日から、ずっとな。おまけに車を爆破されて、足を失って、恨まない奴なんているか?
 お前のことを考えるだけで、頭の芯が熱くなり無意識に弾を込めてた。持てないってのによ」
「・・・」
「わかるか?どんなに恨んでも、不具の身のオレにはお前を殺せねェ。その悔しさ、わかんねェだろう?」
「ああ」
 激情に任して喋っていたネズミのトーンが急に落ちた。
「・・・なあ、次元。覚えてるか?相棒を殺した日のこと」
「覚えてる。もう20何年経ったかな」
 25年だ、とネズミがうめくような声で言った。
 そうだ、あれは25年前の雨の日・・

初めての前後編です。もうしばらくお付き合いを!




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