「グレイト・マウス」より。――後編


 氷雨が降っていた。
 その年の最も寒い日だったのだそうだ。
 がちがちに凍った体を温めようと、次元はずぶぬれの重い体を店へ引きずっていった。
 車が寒さでエンストし、傘を持っていなかった彼はあまりの寒さに震えていた。
 そんな彼の様子を見かねたのだろう。
 温かくて気持ちの良い小さなバーに入っていくと、一人の先客がウイスキーをおごってくれた。
 その先客はネズミ、と名乗った。変な名前だと最初は思った。
 だが名前を聞かれ、次元というのも変な名前だと思い直す。
 この、客がネズミと彼しか居ない寂れたバーに、なんでこんな酒があるのかと驚いたほど、奢られたウイスキーは上物だった。
 お互い、あまり話はしなかった。
 その夜のネズミは、灰色のコートに茶色のベストを着ていた。対する次元はジャケットを羽織っただけという軽装備で、そんなんじゃこの町には居られないと笑われただけだ。
「来たばっかりでな」
「ああ、だろうね。この町は南に山があるだろう?で、海を渡ってきた冷たい風があの山を越えるのを面倒臭がって、この町に居座っちまうのさ。春が来るまで風はどんどん溜まっていって、町はどんどん寒くなる。もっと、暖かいコートを買わなきゃ、明日辺り凍死するぜ」
 そんな馬鹿な、というぐらいネズミの解説は適当だった。しかし、ネズミはその説を大真面目に信じているようだ。
「考えとくよ」
 あとは、お互い無言だ。
 マスターは一言もいわずにグラスを磨いていたが、客二人を残して奥へ入ってしまった。この町じゃ、ただ飲みする奴なんていないんだろう。
 ウイスキーがグラスの中で芳香を放ちながら揺れる様子を、次元はぼんやりと眺めていた。
 体はすでに温まり、思考は明日するはずの仕事へ飛んだ。

 次元はまだ殺し屋の下っ端だった。
 本来、こんなはるばる遠い町へやってきて、単独で仕事をするなんて考えられない。
 それでも、斡旋役のジイサンが回してきたのは、次元を特別扱いしていたからだ。
 ジイサンは次元を随分可愛がってくれていた。
 この仕事の成功で箔をつけさしてやろうと考えたのだろうか。
「いいか、油断するんじゃねェ。相手の腕はお前より上だぞ」
「へーぇ、厄介だな」
「とにかく信用させろ。ゆめゆめ殺し屋だと気取られるな。気取られたら・・」
「気取られたら?」
「ズドン、お終い。だ」
 そんなやりとりを交わして、次元は町に来た。
 確か、組織に口をきいたり、さまざまな契約を取り持ったのもあのジイサンだった。
 ジイサンの尽力のおかげで、今じゃ殺し屋から抜けられなくなっている。それでも次元のためと思っているんだから、彼も暗黒街の赤黒い渦に飲みこまれ、感覚が麻痺したクチなのだろう。
 そのジイサンの助言通り、明日辺りでも標的の住むアパートに引っ越して、隣人の顔して挨拶にでも行こうと考えていた。

 雨が屋根を叩いている。
「じゃあな」
 ネズミは半分ぐらい残っているボトルをカウンターに置いたまま、席を立った。
「もしまだ寒かったら、あと一杯ぐらいは飲んでいいぜ」
「ああ・・ウイスキー美味かった」
 ぼんやりしたままそう答えると、ネズミはコートを着こんで、雨の降りしきる通りへ出ていった。
 黒いこうもり傘が、水滴をはね散らしながらぱっと開く。
 去っていく背中は以外と小さかった。
 更に10分くらい、ぼんやりしていただろうか。あの寡黙なマスターが出てきて、ネズミの瓶を取り上げ、戸棚に仕舞った。それからたった一人のシケた面をしている客――次元に言った。
「そろそろ店仕舞いですが」
「ん?・・・そうか。悪かった」
 マスターは一つ頷くと、洗って乾かしてあった皿やグラスを棚に綺麗に並べだした。
 ふと、付け加えるように言う。
「お客さん、もしホテルが無いんだったら、ここ、開けときますよ」
「・・・泊めてくれるってのか?」
「なにも出来ませんがね。毛布ぐらいなら貸しますから、ご自由に。こんな時間じゃホテルはどこも閉まってます」
 この申し出を、次元は呆れ半分感謝半分で聞いていた。
 普通、初対面の男に店内を貸すか?
「そこまで世話になっちゃ・・・」
「いいんですよ。氷雨が降ってるような晩に、野宿しろなんて言えませんから」
 鍵はここです、とマスターはカウンターにそれを置き、あとは喋らずに皿を並べつづけた。
 すっかり並べ終えてしまうと、彼は奥のドアを開け、自宅へ帰っていった。

 その夜は、マスターの申し出をありがたく受けて泊まった。
 朝一番に町のあまり上等ではないホテルに予約して、ともかく車のエンジンを直そうと修理店を捜し歩いた。
 また、昨夜のバーのところへ来た。つい、ガラス窓から中をちょっと見てしまう。
 朝っぱらから開いているバーというのも珍しい。
 そこは、日中は飲食店として食事を出し、夕刻にバーとして酒を出す方式の店だったのだ。
 そしてそこにはネズミと、あともう一人が座っていた。
 横顔は間違い無く、次元が狙う男だった。慌てて顔を背ける。物陰に隠れて伺っていると、間もなくネズミと男が楽しげに談笑しながら出てきた。
 十分な距離を取って尾ける。二人は入り組んだ路地を進み、幾つもの角を曲がった。
 昨日と同じコートを着たネズミの背中が揺れた。笑っている。殺されるはずの男もそれに応えて笑う。
 10分程度歩くと薄汚いアパートに着いた。踏み面のやたら狭い、さびだらけの階段を二階に上がっていく。
 ポストのところで次元は部屋を確認した。もちろん偽名を使ってはいるが、二階で人が入っているのは1部屋だけなのだ。202、という数字を頭に焼き付けて、その場を離れた。

 三日間、次元は斜め向かいの別のアパートの無人の部屋に無断侵入してネズミ達を観察した。
 その結果分かったのは
 ネズミが毎日八時頃にアパートを離れ、バーへ行く習慣がある事。
 常に灰色のコートを着用している事。
 帰ってきてドアを叩く時は決まって「コン・コンコン・コン」のリズムでノックする事。
 四日目にネズミが着ているようなコートを手に入れ、携帯していたビニール皮膚を使ってネズミの顔を作った。合鍵も手に入れた。
 この時、彼の胸にはある冷酷な計画が固まっていたのである。
 
 その日の八時三十分。
 夕方になって急に雨が降り出していた。
 次元は根城にしていたアパートを離れた。ネズミがいないことは確認済みだ。
 ゆっくり、「202」の部屋があるあのアパートの階段を上る。
 廊下へ入り、202のドアの前へ立つ。なるたけ自然な感じになるように気をつけながら、ノックをした。
 コン・コンコン・コン。
 中から、不審げにどうした?忘れ物か?という声が返ってくる。
「ああ。マスターに見せるものがあるんだ」
 声色を可能な限り真似する。ドアノブを引く瞬間、次元は祈るような気持ちで一杯だった。
 初めて、ネズミのアパートの中を見た。
 たった二間だけの部屋。そこはそっけないほど片付いていて、余計なものは何一つ無かった。
 部屋の隅に本が10冊ほど、一つに積みあげられている。本のタワーの横に、開いたまま裏返した本があった。
 題名はこうだ。『原色鳥類図鑑』。
 タワーの本にはシェイクスピアやクリスティから教育論や伝記まであった。
 そして、狙うべき男は奥の部屋でなにか雑誌を読んでいた。
 入ってきた者にひとこと言おうと顔を上げ、
「ドジだな、ネズ・・・」
 そのまま凍りついた。
 次元は、突きつけたマグナムのトリガーを即座に引いた。銃声の後、硝煙の匂いと血の匂いが混ざり合い不快な臭気となって次元の鼻を刺激する。
 さっきまで生きていた人体が、脳を撃たれて冷たくなっていた。
 後ろの壁に、血が転々と飛んでいる。その時にはなんの情も起こらなかった。
 じりじりと後退し、その場にマスクを捨てると一切の感情が麻痺した感覚のままに階段を降りた。
 そして、目の前にネズミを見たのだ。
 全くの偶然で本当にネズミは忘れ物をし、引き返したところだった。
 まず、次元を見つけて首を捻り、次にコートに飛ぶ返り血を見つけた。顔色が見る間に変わる。
 突進してきたネズミに対し、咄嗟に次元は階段の途中から横に飛び降りたが、彼は次元など眼中に無い様子で202へすっ飛んでいった。
 大声で殺された男の名を呼ぶ声がする。
 その間に次元は隠してあった車まで走って逃げた。
 この瞬間に己の行為の残虐さをはっきりと自覚したのだった。
 呼び声は号泣に変わっていた。その声が足かせとなって体を重くする。
 車までの100m足らずがとんでもなく遠いものに思えた。
 ここにいれば殺される、この思いだけが彼にともすればうずくまってしまいそうな体を引きずらせ、走らせた。
 遂に車へ辿り着いた時、彼は10キロ全力で走ったように息切れしていた。
 依然聞こえてくる泣き声を締め出すようにわざと派手なアイドリングをして発進させる。
 そこで破裂音がした。
 はっと仰いでみれば、アパートの階段の上からネズミがベレッタを構えて立っていた。
「次元ーーッ」
 次元にはネズミの顔を正視できなかった。パンクした車を乗り捨てて隣の細い道に駆け込む。ネズミの追ってくる気配をひしひしと感じながら走った。
 次元も必死だったが、ネズミも必死だった。
 1時間走り回った挙句、土地に不案内な次元はある路地の行き止まりでネズミに追い詰められていた。
 ベレッタが座り込んだ次元の額に押し付けられる。
 ネズミに蹴られた次元の銃が、濡れた路面を遠く滑っていく。
 まとわりつくような嫌な雨がネズミの髪と顔を伝い、蒼白な彼の顔を一層白くさせていた。
 彼は何一つ喋らなかった。ただ、黙って次元に銃を押しつけて立っていただけだ。
 次元も何も言わない。
 雨はベレッタを、ネズミを、次元を、アパートを濡らし、町を濡らしていた。
 夕闇にどっぷりと町が沈むなか、二人は静かに向き合っている。
 次元は妙に客観的に、殺されようとしている自分の姿を把握していた。
 ベレッタを握る手の力がわずかに変化し、ゆっくりと次元が目を閉じようとした時、ネズミが言った。
「行けよ」
 その真意が理解できずに、動かないでいると更にベレッタが降ろされた。
「いつか、あんたを殺す。だが、今日は・・・相棒の命日に人殺しはしたくない」
「ネズミ!」
「いいから、行け」
 そしてネズミはベレッタを仕舞い、肩を落として路地を歩き去っていった。
 雨にそぼぬれたまま・・。
 
 次元が町を出たのはその日の深夜だった。
 この忌まわしい町から、1メートルでも離れたいと思った。
 その頃になって、死んだ男の臨終の姿が瞬きするたび残像となって浮かんだ。亡霊から逃れるように、パンクを直した車で山道をひたすらに走っていった。
 そして、彼はジイサンの元へも戻らなかった。


「あんたに借りができた」
「借りか。オレでも分からなくなる位、あんたには貸してるぜ」
「・・・そうだな」
 とん、とマグナムを置いた。
 ネズミが息を飲むのが分かる。
「撃てよ」
 次元の声は落ち着いていた。ネズミは、諾とも言わず、否とも言わない。
 やがて、彼は一つ問い掛けた。

「もし、オレが今ルパンを殺ったら、あんたはオレを殺るか?」
「ああ、殺るだろうな」

 次元が躊躇無く答えると、ネズミは満足そうに言った。
「よし、オレがこうなったのは、無駄じゃなかったわけだ」
 マグナムを押し戻す。
「さて、行くか」
 車輪が回る音がする。入り口まで行ったネズミは、分厚いドアを一気に開け放った。
 暗闇に目が慣れたせいで、水銀灯の明かりが眩しかった。目をしばたたかせて、次に開けた時、ネズミの姿が逆光の中に浮かび上がっていた。
 彼は車椅子に座っていた。
 青白い光の海の中でこちらを向き、言った。

「もしもあんたの答えが違ってたら・・もしも殺さねェなんて答えやがったら・・その時はあんたを殺すつもりだったんだ。次元、今座ってるダンボールの中身は桜級の火薬だぜ」
 そして、起爆装置らしきものを見せ、それを床に落として踏み砕いた。

 ネズミは一度だけ次元に笑いかけると、明るい夜の中に去っていった。

 ヒッチハイクでアジトに帰りついた次元を待っていたのは、相棒・ルパンの叱言の嵐だったけれど、次元にとってはどうでも良かった。
 それよりルパンの顔を見ただけで何故か安心してしまって、怪我人の権限を振りかざし説教もそこそこに次元は眠りに落ちていった。


   それきり、ネズミには会っていない。
   風は貯まると信じ、鳥類図鑑を読み、仇を結局撃てなかった男。
   もう一度ぐらい、どこかでひょっこり会えないかと次元は密かに思っている。


・・・お、終わった・・(ばたんきゅー)な、なんでこんな長くなってしまったんだろう?
ネズミ、って今考えるともの凄くいい名前v そりゃ、鼠一族とやらで敵役のほとんどは「ネズミ」って名前を持っているにしても、この名前ったらなんて良い響き(☆☆)初期の不二子ちゃんと同じですな、名前の使いまわし。  さて、このオハナシ、次元が弱くて情けなくて卑怯な奴になってしまったわけですが・・一応まだ若い時だし、こんなんでもいいかな〜と一切気にせず書きました。(爆)
読み返してみて「ヘタレやのぅ」としみじみ思ったわけですが、一味違う次元って事でお許しを。m(==)m




マエへ     モクジへ     ハジメから















SEO [PR] 爆速!無料ブログ 無料ホームページ開設 無料ライブ放送