世界が滅亡したかのようだった。
静寂と虚無。凍てつく冷気。
そこにあるのは白く、冷たく、慈悲深い光。
時が止まり、心臓が止まる。
霏々と雪が降る。
目が覚めたら、老人は分厚い雪のなかに取り残されていた。
寝台の後ろ、四角く切った大きな窓から四角い光がぼんやりと空間を満たす。
細やかな装飾で彩られた広い部屋は窓の周囲から灰色から黒のグラデーションに沈んでいて、今朝ばかりはひどく心寒い。温かみを求めて暖炉を見ても熾き火すらなく、影の中で長方形の口をぼんやりと開けているだけだ。
最早体を起こすことも出来ないので、隣に眠る女に手を掛ける。体をゆする手に力はなく、彼女達を深い眠りの淵から呼び寄せることは叶わなかった。いつもなら、若く柔らかな裸体は眠っていても老人のそれよりはるかに高い熱を持ち、懐炉のように穏やかな温かみを伝えてくる。それが不思議と感じられない。
温度の無い腰は、もっちりとしていながらすべらかな感触を右手に感じさせる。こんな肌をしていたのか、と今更ながらに思った。
邸内の人々は寝静まっているのか、聞こえるのは女達の寝息だけだ。
こんな早朝に起きたのは現役の時以来だったかもしれない。それがいつだか思い出そうとしても、老人の記憶はこの雪のように白いばかりで、漠然としていた。
静かさに耐えかねて老人は声を上げようと試みる。
もたらされたのは肺の軋む音と痛み。
ああ、と自分以外には聞こえない詠嘆がしんとした空気を震わせる。
そろそろなのだ。
老人は冬の冷気の如く透徹な意識で自覚する。
今までの人生がどうであったか回想しようとしたが、浮かんでくるのはおぼろげな断片のみだ。記憶は曖昧であるのに、意識の働きは冷徹に最期を告げる。
人はその時走馬灯を見るという。しかし、未練の無いほど焦らされたこの緩慢な終りには、過去の楽しみも悔恨も必要ないのだろうか。実際老人に此岸への思いは湧かなかった。白い記憶の奥から、若き日の一瞬のイメージだけが浮上する。待って待って待ちくたびれるうちに、達成感も喜びも擦り切れて残る、疲労の混じった薄い笑い。
まさにそれと似た感情が老人の四肢と脳を支配する。
この世の快楽という快楽、苦痛という苦痛を味わい尽くした老人は、やっとかつて体験し得なかった領域に踏み込もうとしていた。
こんなに雪が明るいのは瞳孔が開いてきたからか。
音も色も熱も、雪が奪ってしまったらしい。ただ明るさだけがあった。
ただ未練があるとしたら、あの若僧のこと。
三ヶ月で看護婦の指輪を掏り、一歳で家庭教師のブラジャーを掠め取った。
嫡子でもないのに、老人の才能はその子にすべて注ぎ込まれていたようだった。
自分が死んで巻き起こるであろう騒ぎの中心に彼がいることは必至で、類稀なる能力を発揮している孫がどう振舞うのか。それを見届けられないことが残念だ。
老人は天国も、地獄すらも信じていなかった。もし地獄なんぞがあるとしたら、虜囚の凶悪さに悪魔はとっくに逃げ出しているだろう。そして天国にはキリスト以来一人の人の子も訪れないので、楽園は荒れ果てているだろう。
ただ秩序から混沌へ。この身を土に還すにあたっての段取りは既に済ませてあった。若僧を大いに戸惑わせるであろう遺言を思い返し、老人は目を輝かせて笑う。
雪はますます強まり、冷気が老躯に染み込んでいく。
末端の感覚は既に無く、冷ややかな手は次第に心臓へ向かう。
霏々と雪が降る。
いきなり暗くてゴメンなさい。なんだか晩年のおじいさまは鬼畜っぽいです。
遺言の内容については原作をご覧下さいませ〜。MP氏らしい内容で痛快です。