再会



 
 或るヴィーナスの像について述べる。

 夏の倫敦から話は始まった。夜の大英博物館である。
そこに、人影があった。なにやら人目を忍ぶ風情でするりと建物に入り込み、回廊を音のない風のように進んでいく。百ヤードも進んだ頃、彼はある扉の前で留まった。膝を付き、しきりに手を動かしているようだ。
 やがて、金属の触れ合う微かな音と共に扉はゆっくりと開く。彼はまたもするりと入り込んだ。展示室の空気は湿り気を帯び、ねっとりと身体に絡みつく。誘導灯の仄かな光は却って闇の深さを際立たすらしい。
 方々に立てられた硝子の囲みの中には、様々な姿態をしたおとめや隆々たる肉体を誇る戦士が大理石の青褪めた肌を晒して立ち尽くしている。昼の照明の下で見れば、なるほど優れた彫刻だなぁと呑気に感心もしていられるが、いまこうして暗闇の中に佇むひとびとを眺めるとその凝った冷たい体の中に、確かに心臓を感じる。密やかな息遣いを感じる。油断をしようものなら、肩にずっしりと重たい手が置かれるのじゃないかという気までしてくる。
 古代ギリシヤ・ロォマにおける最高の芸術がここには結集されているのだから、長い長い地中を経た彼等が地の精気を吸ってほんとうに動くようになったとしても、なんら不思議はあるまい。
 さて、侵入者の方はというとそんなセンチメンタリズムに煩わされることもないようで、一心に目的へ進んでいく。どうやらその目的は部屋の中ほどに納められたギリシヤの女神像、『裸体のヴィーナス』のようであった。

 かかる彫像は30年前、アテネ郊外のとある遺跡で発掘された物だった。その経緯は全くの偶然の産物で、早朝散歩を日課としていた教授が遺跡から一寸足を伸ばしてみたところ、見慣れぬ石柱を見つけた。すぐにその場で根元を掘り返したところ覗いていたのが彼女の頭部、ということであるらしい。らしい、というのはこの像が発見され、その文化的価値の重大さから特別にパリの研究所へ移送されることになった日の未明、教授が突然の失踪を遂げたために詳しい話が聞けなくなったからである。
 当時この事件は教授が世界的に著名だっただけあって随分とセンセイションを捲き起こしたようであるが、結局真相は見つからずいつの間にか忘れ去られた。
 パリに移された『裸体のヴィーナス』はその後20年間ほど当地の美術館に所蔵されていたが、その美術館の閉鎖に伴って英国政府が購入、所蔵場所がここ大英博物館に至った次第。
 この辺で肝心のヴィーナスの美の説明に移ろう。
 ヴィーナス像とされる同時代の彫刻で着衣のないものは多々見つかっているが、その中でもこの像が「裸体の」と冠される理由、それが彼女の姿勢である。有名なミロのヴィーナスにしろ他のヴィーナスにしろ、像は軽く目を伏せ高貴で近づきがたい印象を漂わせているのが普通だ。
 それがどうであろうか、この像は顎をやや上向きにし、伏せられた目からは恥じらいというより恍惚を感じさせる。豊満な胸部と円やかな臀部、腰にかけての曲線美は惜しげもなく晒されて、見る者の視線を釘付けにする。残念ながら膝から下と両腕は失われているが、その欠陥でさえ想像力を掻き立てて、更に悩ましい。ミロの女神が女性美の理想形ならば、こちらは男どもの欲望の具現化とでも云おうか。  そのあからさまな婀娜(あだ)たる造形はこの像に正当な評価が下されるのを妨げていた。けれども、間違いなく古代美術の傑作の一なのである。
 そしてこの像に関しては、最近不思議な噂が立っていた。動く、というのである。或る朝見回ってみると、像の位置がずれている。おかしいと思って直しても、次の朝はまたずれている。像には硝子ケースがかぶせられており、それを揺らすだけで警報がなるというのだから誰か人の手が関わることはありえない。現に夜じゅう見張ってみたが、誰も現れぬ。なのに朝見るとまたずれている。どうしても分からぬ、不思議なことであった。
 この男が狙うのももっともなのであるがはてさて。

 侵入者は慎重極まりない手付きで、なにやらそばの壁の配線を弄っている。細い指がこまごまと動き回り、一分の隙も見つからぬ。満足したような息を漏らすと、彼は硝子ケースに向き合った。見慣れぬ工具を手品のように取り出す。それをケースに沿って滑らせる。吸盤の甚だ大きい物を硝子に吸着させると、ケースの一面がじわりと外れた。
 すぐにも像を運び出すのかと思えば、どうもそうではないらしい。そもそも彫刻は重すぎ、とても男一人の腕力に負えるものではない。陳列台の上に屈み込んだ彼は小さなジャッキで一隅ずつを浮かせ、小さな車輪を取り付けてゆく。
 全て済ましてしまうと今度は腰の辺りに鋼鉄製のロオプを結んだ。
 ロオプの一方の端は小指状の円錐に溶接されている。男はそれを背に背負ったライフルにこめた。
 そうして今にも計画が完遂されようとした時、大勢の足音とだみ声が展示室に響き渡ったのである。
「貴様、何をしておるかッ。」警備員であった。侵入者にとっては運の悪いことに、さいぜん他の警備員を眠らせた際、手洗いに立っていて難を逃れた者がいたのだ。どうやら眠らしておいたのまで起こして連れてきたようだ。
「やぁ、おはよう、警備員諸君。夜勤は辛かろうと思ったので寝かしてあげたのに、もうお目覚めか。」
「何をちょこざいな、捕まえろッ。」喚いてだっと飛び掛ろうとした瞬間、賊のジャケットの袖口から水風船のようなものが数個転がり落ちた。破裂音がして、濃い煙幕が爆発的に流れ出す。
 虚をつかれて右往左往する中、一発の銃声と硝子の割れる音が耳をつんざく。忽ちサイレンが館内一杯に鳴り響き、展示室は混乱の坩堝と化す。
 その混乱を縫って白い物体が風を切って飛び出した。ヴィーナスだ。いつの間に跨ったのであろう、賊は横倒しになった腰のところに乗っている。一際派手に硝子が割れ、きらめく破片と夜目にも鮮やかなジャケットの赤が踊る。そのまま窓を突き破ると、その姿は闇に消えた。
 この全てが、ほんの数瞬の出来事であった。
「ルパン三世、裸体のヴィーナス、確かに頂戴致した。」後には気障ったらしい男の声が耳に残るのみ。

 ロオプの先は、外の牽引車の上に付いた巻き上げ機に繋がっている。車輌には上部が開いたコンテナーが連結されており、その中の干草の山めがけてヴィーナスは落ちていく。
 しかし、ここにきて予想外の事件が起こった。急に巻き上げ機が止まったのだ。前方への勢いを得られなくなったヴィーナスは失墜するのみ。乗っている男が叫び声を上げる。あわや墜落か、と思われた瞬間。そこへ一陣の突風が吹いた。物凄い風に煽られ、ヴィーナスは再び舞い上がる。そして何とかコンテナーの尻の部分に着陸と相成った。
 牽引車はスピードを上げ、大英博物館から走り去った。
「危ねェ危ねェ。肝を冷やしたぜ、俺ぁ。」
 干草にまみれて男が独りごつ。ヴィーナスのロープを切って草の山の中に隠すと、自分はひらりと助手席に移る。運転席には髭面の男が座っていた。
「次元、巻き上げ機はちゃんと確認したんだろうな。」 
「したことはしたさ。ロープがどんな風に詰まるかなんて分かるものか。第一ルパンが考えた計画だぜ、文句は自分の脳味噌に言うんだな。」 
「今回も成功したんだから俺の計画は万全だったのさ。」
「ちぇ、調子の良いやつだ。」
 会話をしながらも髭の男は長い牽引車を軽く操り、素晴らしい速さで街路を抜けていく。そのうち公園に差し掛かると、中でも闇の濃い森の中に車を入れた。そこで彼らは獲物を下ろし、別の軽トラックに積み替える。驚いたことに荷台は二重底であった。
「ところでルパン、本当にあの爺さんに届けてやるつもりなのか。」 
「仕様が無いだろうが、あんなに必死に頼まれちゃあ。」
「情にほだされやがって。着いてみりゃもうお陀仏してたとなればどうする気だ。」
「死なねェよ。『彼女』に一目会うまではな。そういう目をしていた。」
「ふぅん。どっちにせよ、死んだ後は俺たちの物になるんだったな。」数回像の表面を撫でながら次元が云ったが、言葉とは裏腹にそんなに興味は無いようである。ルパンが応じて、軽トラックは走り出した。

「しかしあの執念。只物じゃないぜ。」
「老人の(むしろ)破りって奴かな。」
「かもな。兎に角、詳しいことは向こうで聞くとしよう。」

 この二人組の盗賊に事を頼み込んだのはある老人であった。アテネを所用で訪れていたルパンが安ホテルに滞在していたところ、老人の孫である娘さんに、彼の言を借りれば「捕まってしまった」のである。
 何でも、数年前、大英博物館に『裸体のヴィーナス』があると聞いたときから祖父の様子がおかしい。まるで狂人のように、どうしてもイギリスへいくという。そんな御金はありませんよと諭しても、イギリスへ行くの一点張り。諦める様子を露ほども見せない。この前行方が分からなくなって慌てて探したら、西へ行く道をがむしゃらに歩いていた。そんなことが度々。
 その祖父も二年前からリューマチが酷くなり、起き上がることすら難しくなった。それでも熱に浮されたようにヴィーナスを呼び続けるばかり。医者に言わせればあと一ヶ月の命だという。たった一人の家族であるので何とかしてあげたいと思っていたところ、或る人がルパンを見たと教えてくれた。どうか助けて欲しい―――といったようなことであった。
 地面に頭を擦り付けんばかりの若い娘さんの嘆願を、邪険に扱えるはずもない。とりあえず老人の家を訪ねてみたが、熱が酷く話を聞くにもどうにもならぬ。ただ苦しい息の下から大英博物館へ行ってくれと頼まれるのに、遂に折れて実行する仕儀となったのであった。



 アテネ郊外の田舎道。
 オリーヴの畑が冗調に広がるばかりの風景の中、例の軽トラックがのんびりと走っていた。
「この辺は確か、裸体のヴィーナスの発掘現場に近かったな。」
「ああ。この道を真っ直ぐずっとずっと行くとその台地の横を通る。」
「俺は会ってないから分からないんだが、どういう爺さんなんだ。」
「何、ごく普通の爺さんさ。一寸ばかり呆けて目がぎらついていたくらいか。」
「その爺さんがなんでそんなに会いたがってるのか、本当に聞かなかったのか。」
「聞けなかったのさ。何を尋ねてもヴィーナス、ヴィーナスだ。盗ってきてやるって約束したらコトンと眠りやがった。」
「それにしてもなんでまた『裸体のヴィーナス』なんか」
「俺に聞くな。」今度は運転を代わって、ルパンがハンドルを握っている。先ほどから景色は全く変わっていない。じりじりと照りつけるギリシヤの太陽と熱波が地表のありとあらゆる物を焼いているだけだ。真青な空には雲ひとつない。
 代わり映えのせぬオリーヴ畑に混じって、玩具のような石造りの家屋が点々と見える。老人の家も、同じような家屋の一つだった。トラックを乗りつけ、扉を小突くとあの娘さんが現れた。
「爺さんはまだ生きてるかい。」ルパンを見ると驚きに目を見張り、まあ、とひと声叫んだ。
「本当に来てくだすったのですね。」
「約束しちまったからね。貴女のような女の子を泣かす訳にはいかない」娘さんははにかんで微笑み、両手を背中に隠す。まだ15、6の歳であった。
「祖父は生きております。あの、まだあんな様子ですけれども。」
「良かった。じゃあ、ご対面と行きますか。台車は持っているね。」
「はい、農家でございますから。中に入って少しお待ち下さい。」通された家は入ってすぐにお勝手とテェブルがあり、部屋はここと隣の寝室のニ間だけのようであった。
 娘さんが行ってしまってから、次元がルパンを軽くつついて云った。
「本当にただの女の子じゃねェか。お前があのホテルにいるって如何して知れたんだ。」
「さぁ。女神様のお導きって奴かね。」
「馬鹿云うなよ。あの動く噂といい、どうも気味が悪い。」
「あんなのは気のせいだ。それか台座が傾いたかして動くんだろ。」
「じゃ、何故夜だけ。」
「ほら、戻ってきたぜ。」
 娘さんが鉄の台車を引き、納屋から歩いてきた。その台車に荷台のヴィーナス像を載せ、運び入れる。その車輪が唸る音で目を覚ましたのか、隣室から綿を口に入れて喋ってるような声が聞こえてきた。ルパンたちにはさっぱり分からぬのであったが、日々付き添っている娘さんには会話が可能なようである。
「お祖父さん、ヴィーナスが来たんですよ、あのヴィーナスが。」快活な娘さんの言葉は劇的であった。オーと感極まった叫びが上がったのである。「早く、早く見せてくれ、早く・・・。」
「すみません、お茶でもお出ししたいのですけれど、祖父があのように首を長くして待っております。どうか、先に見せてやってはいただけませんか。」
「勿論、ご対面と行くか。爺さん、ほら、あんたの恋人だよ。」

 その狭いむっとするような一室の寝台で横たわっていた老人の様子は、何と描写すれば足りるであろうか。
 落ち窪んだ目はぎらぎらと地獄の油のような輝きを放ち、乾いた唇はめくれ上がっている。たった数本のやにで黄ばんだ歯と貧弱な舌が、言葉を形作ろうとしてわなないている。熱のために汗ばんだ皺だらけの皮膚は、老人の総身に残った最後の精気の全てを発散しているようである。五体の中で満足に動かせるのはぎょろつく眼球だけのようであったが、それでもなお指先がヴィーナスを求めようとしている。 「ああ、儂のヴィーナス、どんなにお前に会いたかったことか!」
 甚だしく不明瞭な濁った言葉は、ひゅうひゅうと鳴り続ける喉を搾り出すように紡がれた。聞き取るのに二人は非常に苦労し、終始耳を済ませて居なければならぬほどであった。
「恨むべくはこの儂のこの体!腕を上げるのもままならぬ。恨むべくはこの両目!お前の美しい顔がぼやけて能く見えぬ。儂の全てが意志のままになるならば、お前を撫で、抱擁し、接吻してやれるものを。」
 それでも老人は力の限りを振り絞って、右手を掲げてみせた。ルパンは像を傾けてその手の先に像が触れるようにしてやる。
「ヴィーナスよ・・・。」
 そうして老人はほうっと深い息を吐き出し、力尽きたように病苦の合間の浅い眠りに落ちた。

 静かに病室から居間に移ったルパンと次元は、娘さんの淹れてくれた珈琲を飲み、しばし休息していた。老人の眠りは常に短く、20分も待たずに目を覚ますはずだと云う。異常なまでの執着の原因も、その時聞けるはずである。
 丁度そこへ、あのくぐもった声が聞こえてきた。「起きたようです。」「話をしても?」「ええ。体調には差し支えないと思います。」
 そういうことで、もう一度あの蒸し暑い部屋に入る運びになった。
「爺さん、大丈夫か。」
「おお、ルパンさん。先刻は失礼しました。態々(わざわざ)足をお運びくだすったことに一言お礼を申し上げたく思いましてな。」
「礼は要らないよ。それより、どうしてこんなことを頼んだのか聞きたくてね。」
「それも至極もっとも。まあ、長い話になる、そこへ掛けて聞いてくださらぬか。」
 では、と退室しかけた娘さんを、老人は制する。「お前にも随分と苦労を掛けた。どうか聞いてくれ、儂の懺悔だ。」
「分かりました。あまり興奮なさらないで下さいね。」
 それから老人は、怪異なる驚嘆すべき話を語りだしたのである。



 「実を申しますと、あの像を発見したのは儂なのです。ええ、公式な発表では教授とされておりますが、それはすっかり儂が体験した話なのです。儂はあの発掘現場で日雇いの人足をしておりました。或る朝、彼女に出会ったときの感動は忘れも致しませぬ。あれは紛いも無く、至上、天上の美に対する戦慄でありました。
 儂は農家の出で、人一倍早起きでしたので朝はどんなに疲れていても自然目が覚めてしまうのです。現場の仕事は重労働でしたので、早朝から起き出すのはいつも儂一人で御座いました。どうせ寝床にいても寝付かれぬのだからと、その日は宿舎の掘っ立て小屋を出て一寸辺りを見に行くことにしたのです。
 その時はまさか自分が世紀の発見の証人になるとは微塵も思っておりませなんだ。不図気が向いて、常は人の寄り付かない別の区画に行ってみたらどうでありましょう、あの地域特有の赤っぽい地層から透ける様に白い『彼女』の足が突き出ていたのです。儂は仰天して教授を起こし、報告いたしました。教授は半信半疑でしたので、他の助手も人足も呼ばず、一人でついて来ました。
 教授は一目見て彼女の重要性に気付いたようでした。「何てことだ、早く、君、早く掘るのだ」とかなんとか口走ったかと思います。慌てて二人でスコップを取って慎重に掘り出しました。細かい土くれを彼女の体から取り除いて、そしてやっと向き合った時の儂の気持ちは、何と申してよいか。とにかく頭ががあんとして、全身を稲妻が走りました。身体はおろか、目を逸らすことさえ出来ず、心の臓が早鐘の如く打ち鳴らされました。からだは烈火みたいに火照ってくるわ、頭はくらくらするわで、教授に押しのけられなければ倒れていたところで御座いましょう。
 教授もまったく儂と同じように見えました。儂の事など忘れたように乱暴に押しのけ、只管(ひたすら)見入っておりました。
 しかし、さすがは大学の偉い教授で、自制心と云うものは儂よりも数倍しっかりしていたものと思われます。やっとのことで儂の方に向き直り、街の新聞社へ報せるようにと云われました。儂は技師の自動車に乗せてもらい、街へ行きました。何ぶんこのような田舎のことで、当時は電話も引かれていなかったのです。車中でも、新聞社でも、儂はまだぼおっとしていて、碌な説明もできませんでした。
 そうして戻ってみると、何としたことか、発見したのは教授と云うことにされておりました。抗議の間も与えられぬまま、儂はすぐに暇を出されましたよ。
 一報はあっという間に広まり、発掘現場には連日各国の記者が訪れました。教授が発見したと考えられたまま・・・。

 いいえ、恨み言は申しますまい。教授でなければ彼女がこれほどまで広く、高く認知されることはありえぬことでしたでしょうし、何にも増して済んだ事でございます。儂は名誉など欲しくもありませんでした。ただ、彼女に会えればそれでよかったのです。
 ところが、地元の美術館に収められるだろうと思っていた彼女が、パリへ移送されることになったと聞きました。パリへ行ってしまえば、一介の貧しい農夫に過ぎぬ儂が、彼女に会う術はありませぬ。せめて最後に一目と思い、お暇を出されていた儂は夜、そっとテントに忍び込んだのです。
 そこで儂はあるものを目にしました。てっきり彼女とそのほかの詰まらぬ出土品しかないと考えていたテントに、教授が、あのけがらわしい髭面がいたのです。
 教授がそこで何をしていたのか、それはもう墓まで持っていくことです。口に出したりすれば、また彼女を辱めることになります。
 彼奴は学術肌だの、ストイックだの、高潔だのと云われてましたがあれは全部、嘘です。儂はこの目で見たのだ。昼間取り澄ました目をやに下がらせて、だらしなくだらけきったあの顔を!偉ぶった学者の影もない!情けない!彼奴は彼女に近づく価値も無い男です!彼奴の淫蕩な手が彼女に触れたかと思うと、いまでも気が狂いそうだ。彼奴は侵してはならないことをしたのだ。ああ、彼奴の行為を許しては置けない。
 次に気が付いた時には、右手に砕け散った壷の欠片。足元には教授の死体がありました。
 自首しようか。最初はそう考えました。しかし、思い直したのです。
 儂は神聖なるものを穢した男に天罰を与えただけだ。儂のしたことは、天が代わってしたことに相違あるまい。なれば、人間どもの浅はかな法律とやらで儂が罰を受ける必要はない、と。
 まず、壷の破片で血の付いた物を服にくるみ、別にしました。それから残った破片は他の壷を幾つか砕いて紛れ込ませました。勿論、布に包んで音を小さくしてやったことです。教授の死体と血付きの破片をリヤカーに乗せ、どこに隠そうかしばし考えましたが、とりあえず掘り返した土の山に埋めておきました。そんな所ではじきに見つかッちまうに決まってましたが、何せ時間がなかったのですよ。

 応急の始末をつけてから、もう一度テントに戻りました。彼奴のせいで、彼女とじっくり話をする時間が邪魔されてしまいましたから。
まったく、テントの薄暗がりに浮かび上がった彼女の姿態の美しいことといったら!頭の堅い学者どもは俗っぽいとそっぽを向きますが、あいつらは美を理解できぬのです。良く見てください、彼女の顔を、身体を。官能的でありながらも、例えようも無く崇高な微笑をしているでしょう。
 儂はもう我慢がならなかった。明日の朝になれば彼女は遠い彼方へと行ってしまう。もう手を触れることはおろか、こうして眼前に見ることも叶わぬ。そんなことは耐えられない。冷ややかな肌に指を滑らせながら、儂は泣いた。
 無我夢中でした。どうしたら彼女をこの手の中に留めて置けるのか。無理だ。この身はギリシヤの土に這いつくばって生きるしかない。オリーヴを摘んで生きてきたのだ。きっとこれからも何一つ変わらぬ。お前に会いに行くことすら出来ぬ。そうなれば、いっそここでお前を永遠に俺のものにしてしまおうか。俺がここでお前を盗み出し、畑の納屋にでも隠してしまえば、誰が突き止められようか。逃げるか、全てを捨てて。
 いや、お前はこんな土まみれの場所にいるべきではない。長く地中にあって、やっと今救い出されたところなのだ。これからは、美術館でお前に相応しい暮らしがある。その権利を、俺が奪うことはできない。
 ああ、一体どうすればいいのか。お前は俺が見つけた。それは事実だ。だのに、事実はもはや捻じ曲げられ、あの糞忌々しい教授がお前の発見者という称号を手にしている。誰が俺の言うことなど信じよう?俺とお前との絆は断ち切られ、離れ離れで死を迎える運命なのか。  そうだ、ここで別れるのならせめて俺の名を刻んでおこう。確かに、俺がお前を見つけた証だ。
 そして、儂は精魂込めて大理石の肌にイニシャルを刻んだ。深く、深く彫り付けたのよ。
 彼女の、ほれ耳の後ろじゃ。」



 老人に言われて、ルパンは件の箇所を見た。
「な、F・Hと、書いてあるだろう。」老人は答えを急かす。肯定の言葉以外を受け付けぬ、強い口調である。
 ルパンは静かに言う。
「・・・ああ。確かに残ってる。」老人は満足げに微笑んだ。
「儂のヴィーナスだ・・・。究極の美。見てくれ、彼女の肌理の細かい肌、なまめかしい口元、目、頬の紅潮、豊かな髪、しなやかな四肢、整った乳房、細い腰を!彼女が動くという噂、あれを聞いて儂は居ても立ってもいられなくなった。それは儂の死期を悟って、最期にもう一度会いたがっているのだと分かっていたのだ。あ、あ、ヴィーナス、お前の側で死ねて嬉しい。」
 老人は右手の指先で像をなぞりつつ、落涙した。老人にはルパンも次元も、孫娘さえ見えているまい。
「じゃあ、俺たちはこれで。」
「もう行かれるのですか。お夕飯でも食べて行かれればよろしいのに。」
「有難う。だけど爺さんとの時間をこれ以上邪魔するのは心苦しいのでね。もう残り少ないんだろう?」
「はい、お医者様はそう云っておりました。」
「なら側についてあげた方がいい。さようなら」
 戸口まで出て行こうとするルパンは、また引き止められた。次元は構わず車に乗り込んでしまっている。
「待ってください、確か、像はあなたがたにお譲りする約束では。」
「そうだな、一ヵ月後にまた貰いにくる。今爺さんから取り上げるのは気の毒だ。」
「分かりました。ほんとに、どうも有難う御座います。」
「いいさ、俺も三十年越しの恋ってのを見てみたかったんだから。じゃあ。」
「さようなら、ルパンさん。」
 ルパンはちらりと寝室のほうを振り向き、一瞬哀れむような表情をする。娘さんがその意味を解する前に、彼は去っていった。


「なあ、ルパン。俺たちは壁ぎわに突っ立ってたんで、よく見えなかったんだが。本当にイニシャルなんてあったのか。」
「そいつを言うのは野暮ってもんだぜ。爺さんにとってはあった、それでいいじゃねェか。」
「無かったのか。」
「いや、それらしき傷は付いていたが、あんまり薄くて良くわからねェ。」
「そうか。」
 なんとなく押し黙った雰囲気が車中に垂れこめている。次元は口を引き結び、何事か考えているふうである。ややあって、重たげに言葉を継いだ。
「考えたんだが、どうして教授の死体は見つからなかったんだ。話に出てきた土の山なんざ、真っ先に探されるんじゃないか。」
「さあね。もしかすると後でどこかに隠したのかも。」
「だとしてもさ。やっぱり見つかっているはずだと思うぜ、俺は。話を聞いていてずっと感じてたんだが、あの女神が本当に爺さんに会いたがってたとは思われねェ。爺さんの顔を見下ろしてるあの顔が、どことなくゾッとするような感じなんだ。お前は側で気が付かなかっただろうがね。」
「止せよ、たんなる像じゃねェか。」手を振って、この話題を終わらせたがったが、次元の弁は止まらない。
「待てよ、確かパリからイギリスに移ったのは不審火で研究所が焼けたからなんだろう?焼死が二名居たそうだ。爺さんの話が本当なら、教授は像を穢して殺された。もしかするとその二人、何か像にやらかしたんじゃないか?」
「止せって、次元。」
「おい、ルパン。そのヴィーナスがだ、自分の肌に傷をつけた奴をどんな風に思う?」
「そりゃあ、絶対に許さないだろうよ。」
「なら、ひょっとするとだ、ルパン、動いてまで爺さんのところに行きたがったのは、もしや・・・」
「次元、もう云うな。あれはただの大理石の塊さ。そんなはずあるか。」ルパンは不機嫌そうに云って、むっつり黙り込んでしまう。これ以上は云いつのりにくくて、次元もつばを引き下げ目を閉じた。無言のまま、アテネ市街への帰路に着く。
「結局、利用されていたって気がするな。」ぽつりと次元が呟いた。


 ルパンたちが農家を辞して約一時間半後、エーゲ海沿岸を強い地震が襲った。老人の家も激しい揺れに見舞われ、台所に立っていた娘さんはまともに立っていられぬほどであった。揺れが収まった後、祖父を心配して寝室に駆けつけた娘さんは悲鳴を上げた。
 像が台車から落下し、老人の頭部を直撃していたのである。重い像であったから、頭蓋骨は無残なまでに砕かれていて、顔が判別不可能なほどに潰されていた。
 その惨状に身を震わせて一歩死体へ近づいた娘さんは、あッ、と声を上げていた。血と脳漿が部屋中に飛び散ったなか、裸体のヴィーナス像の白い肌に、血は一滴も付いていなかったのだ。



   三島由紀夫「美神」inルパンです。授業で扱った短編ですが、考えてたら止まらなくて。二重パロディとは言ってますが、おこがましいことしておりますね。好きな人はゴメンなさい。
 文体変えてみたんですが、何故か頭にあったのは「走れメロス」という・・・。三島関係ないし。えせメロス。
 というかこれ、ルパンの話じゃないよね。





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